2024年04月29日

撮影監督 岡崎 宏三


今回は“従軍カメラマン”の目線で描きました。戦争映画は戦場をいかに再現するかが勝負ですからね。それにスタッフで戦争を知っているのは私だけでしたから。
実は山中戦後にかけてニュース映画を撮っていた時期があって、そのときの経験から弾をよける姿勢、視点というものを知っている。今回の塹壕からの映像でもあれより高いと撃たれてしまうのです。
 それと今回は当時の映像について“1フィート運動”のアメリカのニュースフィルムを活かすということになりましたから、それと今度の映画の画質をどう調和させるのかという点に苦心しました。
 不幸中の幸いというべきか、「GAMA」は製作費の問題で企画がスタートしてから1年半程は撮影に入れなかったのですが、その間に使用するニュースフィルムをアメリカから取り寄せて研究することができました。
 そこで考えついたのが、アイモという戦争中に使っていた旧いカメラをカムバックさせようということでした。アイモと言うのは、ピントは送れない、ファインダーは正確でないという非常に不便なカメラなんですから当時を再現するには当時の可能な技術で撮るのが一番。
 フィルムも今のは映りすぎるので、現像所に頼んでわざと画質を落としてもらいました。「シンドラーのリスト」(1994年アメリカ映画)なんかもこの点では必ずしも成功しているとは思ってなかったのですが、今回はラストの救出シーンの脱色などいい結果になったと思っています。
 あと、壕の中は「闇」ですからね。上からの光源を使わないで、ロウソクのあかりですからカットごとに考えました。
 要は、人間の力でフィルムを再現しようということだったのです。
 この点では、糸満市をはじめ地元の人たちのバックアップ体制も大きな力でした。撮影現場が全部糸満に集まっていて、ガマのセットも製糖工場の倉庫の中に作れたし、協力してくれたゴルフ場の中に本当のガマがあって入り口付近はそこで撮れました。
 でも、天候だけはどうにもなりません。沖縄戦は、後半はほとんど雨だったと記憶にはある。例えば、雨の中を子どもを探すところなんか、地元の人が200人も集まってくれたのに、その日は晴。手前に雨だれを使うといったこともありました。
 ていねいに作るというのは決してお金をかけることじゃない。人間の能力をフルに発揮してつくれば、世界のフィルムに負けないものになるはずです。
 このような考え方、姿勢で撮り、作った映画が、上映(運動)の面でも貫かれ、広がっていくことを期待しますし、それに成功すれば“新しい映画づくり”といえるのではないでしょうか。


プロフィール

映画との関わりは、1936(昭和11)年、新興キネマ大泉撮影所の入所までさかのぼる。撮影した作品は146本を数える

代表作
御用金(1969年)
恍惚の人(1973年)
ザ・ヤクザ(1974年)
ねむの木の詩がきこえる(1978年)
アラスカ物語(1978年)
戦争と青春(1991年)  


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2024年04月28日

映画の中で出てくる用語

防衛隊………陸軍防衛召集規則に基づいて、17歳以上45歳までの男子を召集した部隊。実際には頭数を揃えるために、15歳から50歳すぎの老人までかりだされました。1944年10月から翌年3月までの間に現地沖縄を対象に25,000人が召集されました。沖縄以外の県では防衛隊の召集はありません。

学徒隊………師範学校、中学校、女学校の生徒を動員した「義勇隊」。
当時は法的根拠もありませんでしたが、沖縄戦が終わった後に国民義勇兵役法が公布されています。鉄血勤皇隊、ひめゆり隊、白梅隊など男子約1,700名、女子約550名が従軍しています。

ガマ…………鍾乳洞のこと。沖縄本島には大小さまざまなガマが各地に散在しています。沖縄戦において砲爆撃から逃れるために、住民や日本兵がこのガマを天然の地下壕として避難しました。

馬乗り攻撃……米軍はガマを攻撃するために壕の天井(地表)からボーリング機械で穴をあけ、機関銃やガス弾などをうちこみました。日本側はこの戦術でずいぶん苦しめられました。

カンポー………艦砲射撃のこと。沖縄に押し寄せたアメリカ戦隊は、戦艦10隻、巡洋艦9隻、駆逐艦23隻、砲艦117(大型輸送船80隻、LST80隻、小型船艇400隻)という世界海戦史上類を見ない大規模なものでした。軍艦に備えられた大砲は口径が大きく、集中砲撃されるとものすごい威力を発揮します。

沖縄の雨季……九州の梅雨期よりも沖縄は1ヶ月ほど早く、沖縄戦の5月から6月は雨季でした。

風葬(墓)………人間の死体を海岸や森・山中などに放置して、自然の風化にまかせる葬法。主として南方の太陽の直射の激しい地方でおこなわれてきました。沖縄では昔、ガマに遺体をおいて風葬にしたところがあります。

亀甲墓…………沖縄に古くからつくられた血縁一族の墓。石造りでかなり大きく、中には遺骨等が収納されています。上から見ると亀甲のような型をしているので、亀甲墓と呼ばれています。この墓は、沖縄の人たちが先祖を大切にする習俗を象徴しています。沖縄戦の時には避難壕として墓の中に入って難を逃れた人も多くあります。皇軍が住民を追い出して自分たちが隠れたりしました。

いくさゆー……「戦いの世の中」と言う意味。ヤマトゆー、アメリカゆーなどと使います。

ウチナーぐち…沖縄(琉球)のことば。それに対して日本本土で使うことばは「ヤマトぐち」と呼ばれています。1879年の「琉球処分」以来、日本政府はヤマトぐちの使用を強制してきました。それは明治の学校教育の最重要課題の一つでした。沖縄戦の時、住民同士で話すウチナーぐち(方言)は皇軍にはわからず、方言を話すものはスパイだとしてウチナーぐちの使用を禁じました。沖縄の人たちは、沖縄の人のことをウチナーンチュ、本土の者をヤマトンチューと言います。

ウタキ…………沖縄では古くから神は樹木のうっそうと茂るところの大きな木や石、または泉水などに天降るものと考えられてきました。そこをウタキ(御嶽、拝所)と呼んで、神聖な場所としてきました。

ノロ(ヌール)……各部落毎にウタキを中心に祭事を司る女性を「根神(ニーガン)」といい、いくつかの部落(村)の「根神」を統率し村の祭事を司る女性を「神女」ノロ(ヌール)といいます。ノロは村人の厚い信頼と尊敬を集めており大きな影響力を持っています。

馬の肉一斤が100円……沖縄では普通、馬の肉は食べません。馬の肉ということは、それだけ食べものがないということを表しています。一斤は600グラム。その当時、牛肉100グラム80銭・米10キロ4〜5円程度でした。

ハワイ移民…………戦前沖縄では多くの人がハワイやブラジルなどに出稼ぎや移民に出ました。帰国者の中には、アメリカの状況を知ったり、英語を話す人もいました。皇軍は特にこれらの人たちを白眼視していました。  


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